6.27島々から全国へ反戦東京行動 6月27日、「島々から呼びかける 全国を戦場にさせない!東京行動」に参加しました(名称が長いので、ぼくは勝手に「島々から全国へ反戦東京行動」と呼んでいます)。 南西諸島(琉球弧)の基地問題は、台湾有事をあおる現政権のもと、沖縄の戦場化の危機というだけでなく、(本土の場合はそれが見えにくいだけで、)本土も含め全国が標的になる可能性があるという意味で全国的な問題です。そのような認識に立ちながらも、体力的な問題からなかなか現地にコミットできないところ、現地で基地反対運動を担っている市民団体が東京に来て集会と対政府交渉をするというので、重い体を引きずるようにして会場の議員会館に出かけたようなわけです。 会場は衆議院議員会館 国際会議場。定員は100ぐらいですが、ざっと見で7、80人ぐらいはいたようです。Zoomでの参加も(現地の市民団体も含め)多いようでした。正確なところはわかりませんが、会場参加も含め、100名以上だったのではないでしょうか。 第1部は各地からの報告。馬毛島・奄美大島・沖縄市瀬間・宮古島・石垣島・與邦国島・大分(敷戸)、Zoomで福岡(築城)・京都(祝園)。参加国会議員(立憲・共産・沖縄の風)。協賛団体の総がかり実行委からの挨拶。 政党の中でいつもは必ずと言っていいほど姿を見せる社民(特に福島党首)がいなかったのが気になりました。忙しかったのでしょうか。 昨年12月におきた米兵による性加害事件を政府が3月に把握しながら沖縄県に伝えたのが、それから3か月後のことだった事に抗議する声が上がり。これを決議しました。外務省は否定していますが、この隠ぺいは沖縄県議選における(自民党の裏金問題と並ぶ)悪影響を考慮したものであると、誰が見てもそう思います。 この後第2部として、市民団体の要請と政府関係者(各省庁の官僚)に対する質疑が行われましたが、ぼくは途中で退席しました。しかし少し聞いただけでも、官僚の答弁は一般論に終始し、市民団体の質問に誠心誠意答えているとはとても思えないような(基本的な事実関係を把握していない、またはしていないフリ?)ものでした。 (2024.6.27) 殺すな! 5.25ガザ地区停戦緊急行動 −鎌田慧さん・佐高信さん・落合恵子さんなどの呼びかけによる「殺すな! 5.25ガザ地区停戦緊急行動」− イスラエル大使館は地下鉄麹町駅の近くと聞いていたので、これなら参加できそうだと踏んでやってきたが、実際はたどり着くのがやっとだった。 歩く距離を最小に、階段はできるだけ避けたルート設定した。しかし実際には地下鉄飯田橋での乗り換え、麹町の階段など、到着した時には「もーっ、もうどーにでもなれ!」という気分。ガザの現状を考えればそんなことは言っていられないのだが、キツイものはキツイ。 それでも人が続々と集まって、スピーカーの大音量が聞こえてくると血が騒ぎ、気分だけは高揚した。 持ってきた「戦争こりごり、原発まっぴらごめん党宣言」のビラを道行く人に手渡したり、立って話を聞いている人に配る。飛ぶようによくはける。持参のビラはあっという間になくなる。こんなことならもっと持ってくればよかったと、「でも重いしなあー」と複雑な気分。 チラシもなくなったので、自作の抗議アピールを拡大した用紙(以下参照)を胸の前に掲げ、主催者の話を聞く(ちなみにこの英文はグーグルで翻訳したものをそのまま張り付けたもの。正しいかどうかは分からない)。 集会は大使館前から少し離れた道端で行われた。警察が規制していて近くづけないのだ。呼びかけに応じて参集した市民は300人ぐらい。主呼びかけ人として鎌田慧さん他、佐高信さん、雨宮処凛さんなどの挨拶が行われた。 石川逸子さんも参加され、ご自身の詩を朗読された。 ガザ・いま 石川逸子 ガザ いま 通学途上の子どもたちは 瓦礫の下敷きに ガザ いま 窓ガラスを破られた暗いアパートで ひとびとは凍え ガザ いま イスラーム大学の校舎は崩れ落ち 病院もねらわれ ガザ いま 消防署が国連事務所が 難民キャンプの警察署が 爆撃され ガザ いま 救急車も炎上し 野菜市場は空爆され ガザ そのひとたちはなにをした (先祖伝来の土地を追われ 逃れてきただけ) ガザ そのひとたちはなにをした (入植者に40%の土地も奪われ ひしめき暮らしているだけ) ガザ そのひとたちはなにをした (出口・入口をふさがれ 袋のネズミにされているだけ) ガザ そのひとたちはなにをした (道路もおりおり封鎖され 仕事にも学校にも行けないだけ) ガザ いま その地に イスラエル機は無差別爆撃をおこない ガザ いま その地に イスラエル戦艦はたえまなく砲撃をくわえ ガザ いま その地に イスラエル戦車はわがもの顔に進撃し ガザ いま アメリカ議会は そのイスラエルを支持し ガザ いま その地で 夜もひとびとは逃げまどい ガザ いま その地で もがきながら息絶えた ひとびと ガザ いま その地で 両腕をもがれた 子どもたち ガザ いま その地で 葬列はたえまなく ガザ ガザ ガザ・・ ガザ その地はいま 水も電気も絶えかけ 食糧も危うく ガザ その地でいま ながれ ながれつづける 無辜の血 ガザ・・・ガザ・・ 石川さんの詩には止まないジェノサイドに対する激しい怒りと、この詩人にはまれな、深い絶望感と無力感がある。それほどに、今まさに同時進行で起きているガザの事態は、ひとそのものの希望を根こそぎにするものだ。 ぼくたちは、そのようなガザの人たちの現状にどれだけの想像力を働かせられるのだろうか。 それとも遠い地の出来事だと言って気にも留めないのだろうか。 主催者は抗議文をイスラエル大使館に届けた。 気になったこともあった。この集会に限らないのだが、政党も組合もまったく姿が見えない。そのこと自体が運動の弱体化を示していると言える。一人一人の自発的意思に基づく行動はもちろん大切だし、市民運動が担わざるを得ない状況も理解はしているつもりだが、疑問は消せない。 もう一つ気になることがあった。呼びかけ人や参加者の演説はあったが、(司会個人の資質なのか、主催者の意向なのか、それとも警察の要請を受けてなのかは不明だが、)抗議のシュプレヒコールは全く行われなかった。もしかするとこれは、デモを「パレード」と言ったり、集会を「フェスティバル」、ビラ・チラシを「パンフレット」と、(アジ)演説を「アピール」と言いかえるのと無縁ではないかもしれない。 近くの広場では何かの、まさに「フェスティバル」が開かれていて、そこの場に集う人々にとってガザの出来事は無きがごとくであった。 集会終了後、さらにアメリカ大使館に移動して抗議行動を続けるという。できればこれにもぜひ参加してほしいという呼びかけがあった。 気持ちは大いに賛同、しかし体のほうがすでに拒否反応を示していた。夏のような日差しを受け、立ち続けていることすら困難だった。 戻るルートである地下鉄への階段は下りなので何とかなりそうだが、飯田橋での地下鉄乗り換えで(あくまでも自分にとってだが)長距離を歩き通せる自信はない。有楽町線のホームで待つと、たまたま西武池袋線の小手指行きがやってきた。かなり遠回りになり、時間も料金もかかるが、そのまま座っていけるのはなによりのメリット。即座にこれを利用することにした。 (2024.5.25) 5.11経済安保法案反対! ―最後の集会参加となるか?― 「もうデモはできないな……」と観念したのが、3年前ぐらいの憲法集会後のデモたった。なにせデモ行進の速度についていけず、デモ解散地点に息も絶え絶えで到着した時には、仲間のみんなはすでに「総括」も終わって、影も形もなかったというような体たらくだった。 その後しばらくおとなしくしていたのだが、「行けるところまでついていこう」ぐらいのノリで2回ほどデモに参加した。「貫徹」出来たものもあれば、途中で「日和った」のもある。 体調の変化もあり、調子のいいときには歩けないこともなくはない、という具合だ。見かけは「健常者」と全く変わらない(どころか、どちらかというとガタイがいいほうな)のだから、内部障害(心臓機能障害)のキツさは誰からも理解されにくい。体調は年単位で悪くなっているとは言うものの、日によっても波があるからなおさらである。 集会の間、立ち続けているのもキツイことがある。たかだか1時間ぐらいですらそうなのだ。しかし、それにもまして集会の場に到達するまでが大変なのだ。歩くのが辛いものだから、近くの駅までも自転車で行く。 電車の乗り換えも、なるべく歩く距離を短くするよう、使う路線を考える。階段などはもってのほかだ。駅にはエレベーターやエスカレーターが増えたとは言うものの、乗り換える場所によっては階段しかないところも少なくない。 帰路、新宿で山手線から中央線に乗り換えようとしたが、中央線のホームに上がるには階段しかなかった。遠回りをすればどこかにあったのかもしれないが階段を探して歩くのが辛い。あきらめて西武線に乗るために、改札を出ることにした。それでも西武戦までの徒歩は、自分にとっては短くはない。こんなことは、他の誰にも想像もつかないだろう。歩くことは、誰にとっても普通のことなのだ。それが自分にとっては普通ではない。 「これでも昔はザックを担いで冬山を歩き回った」などと考えると泣けてくる。しかし、今そんなことを考えても得るものなどない。できるときに、できることをやるしかない。残された力があることを貴貨として利用するほうが、前進する意欲ともなる。 前置きが長くなった。「経済安保推進法案」のことである。 この法律は、アメリカの要請に従って、脅威とみなされる国(中国・朝鮮人民共和国・ロシアなど)を対象にし、技術や特許、研究・産業技術・材料確保など幅広い分野に網をかけ、国家(軍事的)利益を優先し、不都合なものは摘発するという、極めて危険なものだ。しかもその対象となる138項目については、国会の審議もなしに政府の政令・省令などで決定される。 市民や海渡雄一弁護士・井原聰東北大名誉教授のなどが中心となって「経済安保法案に異議ありキャンペーン」として運動を進めている。安全保障技術研究推進制度と並んで、軍事研究が推し進められ、企業活動や学術研究の自由を侵害する恐れが高く、軍学産複合体が形成される可能性もある。 公安調査庁、公安警察、内閣情報調査室等による科学技術者に対する監視が強化され、関連する企業や研究者・技術者、市民の活動の自由が抑制される危険性がある。げんに、この法律を先取りしたような捜査で、大川原化工機冤罪事件なども起きている。まさしく「軍事優先経済法案」だ。 しかも、この法案の反対に回っているのは共産党のみで、立憲民主党は付帯決議をつけて賛成しているという危機的状況であった。その成立が参議院の本会議で決定するというのでで駆けつけたようなわけだ。 しかし、集まっていたたのは前回(4.28)と同じく、30人程度。参議院での同法案の成立のほうが届く中、それでも果敢に反対の声を上げ続けた。 (2022.5.11) ※経済安保法案ののことか東京新聞(2022.5.13)に載っていた。記事を掲載する。拡大して読むには画像をクリック。 |
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3.21さよなら原発集会とデモ なんだか、「街をわたる風」はデモや集会の報告版のようになってしまった。 もともとは、もっと情緒的、個人的な報告を載せていた(そうでないものを排除する意志は毛頭ない)のだが、それほどロシアのウクライナ攻撃に対する抗議活動の機会が多いということでもあり、体調の悪さを押してでも出かけたいという内的動機が高じているということなのだろう。さらに、今回はそれ以外の動機もあて、3月21日の代々木公園での「3.21さようなら原発集会」に参加することにした。 福島原発事故に関する国と東電の責任と、その賠償を求める原告3団体(生業訴訟・群馬訴訟・千葉訴訟)の共同の取り組みである署名活動(最高裁に対して公正判決を求めるもの)に、昨年の夏ごろからずっと協力していた。さよなら原発の集会ならたくさん集められるだろう考えたのがその動機。 今年の3月A日に東電の責任を認める最高裁の判断が示されたことに引き続き、夏までには国の責任について示されるだろうとの判断のもと、締め切りが、急遽3月末までということに早まった。署名活動にとっては最終的な追い込みである。集会の1時間ぐらい前に現地に向かうことにした。 今回の集会のメインテーマは「ウクライナに平和を! 原発に手をだすな!」 いつものように原宿で電車を降り、代々木公園まで歩く。慢性心不全状態の自分にとってはこれが一番つらい。ゆっくりゆっくりと、自分でもイライラするくらいの速度で歩を進める。公園入り口前の歩道で署名簿を取り出し、公園に向かう参加者に呼びかける。通行人の30から50人に一人ぐらいは署名に応じてくれる。 1時間ほどたち続けていたが、脚の筋肉が固くなり、立っているのも辛くなってきた。昔、リュックを担いで山を何時間でも歩き続けていたことを考えれば、体力の低下と加齢は歴然とした事実だ。さらに心臓機能障害というハンディもある。無理はできない。「お店」をたたんで、公園内に入ることにする。 公園の中は人でごった返しているかもしれないと思いきや、意外と空きスペースが多い。野外ステージの周りには人だかりができていたが、人を避けて前面に出ることも楽にできる。その周辺には様々な団体ののぼり旗が立ち、それぞれ数人から数十人が集っている。間を通り抜けることなど普通にできる。 福島第一原発事故直後の2011年9月「さようなら原発集会」(明治公園)で6万人が集まったことを考えれば、いかにも少ない。この間、進められてきた国や経済界の原発再稼働政策や、近年の感染症蔓延などの影響などもあるのだろうが、いちばん大きな理由は、人々の意志と情念の不継続性、つまり「忘れっぽさ」だ。それは仕方のないことだとは思いつつもやはり寂しい。 知り合いを見つけ、声をかける。彼も病み上がりだ。 ウクライナ問題についても少し話す。ウクライナに対する認識や、反戦活動内の微妙な意識の違いが、ちょっとした対話の中でも明らかになった。同じことは、地域でのグループ内でも感じたことだし、反軍事研究反対の活動を進めている団体の中でもよく目にすることでもある。ネットを中心として様々な情報が飛び交い、関わっている人や団体の意向も反映し、事態も刻々と変化していることからくる過渡的な現象でもあるのだろう。 微妙な違いにこだわりつつも、それを決定的な決裂とせず、より大きな枠組みの中で反戦運動を進めていく必要があると、自戒を含めて考えた。 デモは1時過ぎから始まった。はじめはデモには参加しないつもりだったが、とりあえず行けるところまでは行こうと歩き出した。デモ本体は街中を一回りして、最終的には公園まで戻ってくる予定だそうだ。渋谷の街は坂が多い。とても最後まではついていけるわけがない。当面の目標は渋谷駅だ。 渋谷駅までは下り坂、そこまでは何とかなると楽観的だった。しかし、道半ばですでに仲間から少しずつ遅れ、信号で分断されたりして、最後には一人で車道を歩いているような有様になった。 渋谷駅近くではさすがに歩道を歩かざるを得なくなり、そのまま駅に吸い込まれた。 (2022.3.22) |
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3.10ロシア大使館前抗議活動 前日の9日、武器取引反対ネットワーク(NAJAT)からの呼びかけをネット情報で知った。ロシア大使館前で、ロシア軍のウクライナ侵攻に対する(ダイ・インを含む)抗議行動するという。 2月27日に、渋谷ハチ公前での抗議行動の時に、ロシア大使館前は5人ずつでしか入れてくれないという話を聞いていた(そのために急遽、渋谷での集会になった)ので、ほんとにできるのかいな、と半信半疑ながらも、出かけることにした。 大使館に行ったところで、中に入れるわけでもなく、ましてロシア大使に会えるわけでもなく、同館近くでこぶしを振り上げるだけの、風景としては蟷螂の斧のようなものだが、それでも市民が反対の声を上げていることを示すのは全く意味のないことではない。客観的に意味づけすればそのようなことになるのだが、むしろ直接大使館に行って抗議したいという内的な高まりから出かけたというのが正直なところ。 とはいっても、都内に出かけるのはつらい。この頃は階段の登りもできれば避けたい。最寄りの駅は地下鉄日比谷線神谷町駅。古い地下鉄ほどエスカレーターが整備されていない。エレベーターがあってもとんでもないところに出てしまい、とんだ遠回りをさせられることも多い。元気だったころには想像もできない壁が立ちはだかる。障害のある人たちとの付き合いがあったにも関わらず、実感としては理解できておらず、その付けが回ってきたようだ。車いすの人たちは、これが日常なのだ。 その神谷町の駅でNAJAT代表の杉原さんと出くわす。時間が早かったせいか、まだたくさんの人は来ていない。杉原さんにロシア大使館の場所を確かめ、こちらは歩くのが遅いので、一足先に行っていると断り、先行する。 しかし、神谷町からロシア大使館まではずっと上り坂が続く。かといってタクシーで行くほどの距離でもなさそう。足取り重く、途中休み休みながら、最初の交差点にたどり着く。ここを右に曲がればロシア大使館はすぐ近いらしい。遠くにそれらしき塀のようなものも見えている。 交差点近くに警察の警備車両が何台か停まっており、警官が何人もたって警備している。 なるほど、ここで抗議団体を規制しているのだなと、すぐに察しかついたが、何食わぬ顔で通り過ぎる。団体だと規制するが、個人だとフリーパス。 そこから大使館正門前までも、緩い登りになっている。正門前に近づくと数人が抗議の声を上げている。正確には車道を挟んだ反対側の歩道上で、正門よりは少し左に位置する場所。どうもそこが抗議スペースとして警察が指定しているところらしい。 周りは人が混みあってはいない。むしろ人通りは少ないほう。正門から外れた場所で抗議しなければならないモラル上の理由もなさそう。あえていえば警察の警備上の都合だけ。そんなものに付き合う必要はない。 正門の真正面(といっても車道を挟んでだが、)で手作りの抗議のプラカード取り出し。正面に掲げる。何人かの警官が集まってきて、「すみません、あちらのコーナーに移ってもらえませんか」という。ここは公道だろう、どこで抗議しようとこっちの自由だ。周りに迷惑かけているわけでもない。そもそもそんなことを要求できる法的な根拠があるのかと反論すると、「混乱するとまずいので」とか、「あっちでやっている人と不公平になり、文句がてる」だとかのたまう。理屈も何もあったものではない(東大和市の中央公民館長の言いぐさを思い出してしまった)。 市民は役人の言うことを受け入れるものだと思い込んでいるらしい。彼らはあなた方の言う「ルール」を受け入れているのであって、私はその気がない、と言って、あとは無視して立ち続けた。 それでもまだ何か言っていたが、そのうち静かになった。でも立ち去らない。うっとうしいが、それくらいは我慢するしかない。 地元の小学生に、「何やってるの」と聞かれたり、通りがかりにクラクションを鳴らして連帯の意思を示してくれる外国人もいたりして、面白くも、心強くもあった。 そのうち、そのコーナーで抗議の声を上げていた人がこちらにやってくる(他の人は帰ったらしい)。やはり正面でやりたくなったのかと思いきや、件の場所では、日の丸の小旗を掲げて「プーチンは北方領土を返せ!」とかやっている。右翼か民族主義者の類だろう。こちらにやってきた御仁はいらぬ衝突を避けたものとみられる。彼は個人的な抗議活動らしい(こちらは結果的にそうなった)。 その右翼連はものの10分も声を上げたら、旗を巻いて撤退してしまった。何のことはない、アリバイ作りだ。先ほどの御仁が元の位置に戻り、また抗議の声を上げだした。 だいぶ時間がたったが、NAJATグループは現れない。こちらも脚が痛くなってきた。このまま続けると脚がつって、歩道上でひどいテータラクになりそう。そろそろ頃合いと見極め、筋肉のストレッチをした後、こちらも撤退することにした。 神谷町の駅で杉原氏と再会。事情を聞いたら、交差点の検問で引っ掛かり、そこから先に行かせてくれなかったらしい。抗議団体と警察グループというかたちで対峙してしまうと、どうしてもガチンコ勝負になってしまい、常識が押し切られ、無法がまかり通ってしまう。警官の規制に道理も法的な根拠もないはずなのだが……。 彼らはその手前で抗議の声を上げ、ダイ・インしたそうだ。こちらは結果的に個人行動になったため、正門前で抗議ができ、ある意味ラッキーだったといえなくもない。 (2022.3.10) |
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久々のデモ 明日、「さようなら原発1000万人アクション実行委員会」が主催団体となって、ロシア軍によるウクライナ侵攻と原発攻撃に抗議するデモがあるという情報が、3月4日に入った。渋谷代々木公園けやき並木園路に集まり、渋谷駅ハチ公前を経て神宮通公園まで歩くという。 先日の渋谷での集会に引き続いて2度目だが、日々変遷するウクライナの状況、住宅地区への攻撃により、住み慣れた家を追われ、国外に逃れるウクライナの人々、それらを目にすると、やはり居てもたってもいられなくなる。 昨日は自分の主催している「サンホセの会」という地域グループで、戦争反対のメッセージを出そうとしたが、意見がまとまらず、それはかなわなかった(このことは、落ち着いたら改めて自分なりに総括したいと考えている)。気落ちしたことは確かだが、メッセージを発することができなかった代わりに、という思いも込めて出かけることにした。 自分で言うのもおかしいが重度の慢性心不全状態で、とてもデモなどはできないだろうから、せめてデモ前の集会だけでも参加しようと考えた。 最後にデモに参加したのは、何年か前の憲法記念日集会後のそれ。 デモは途中途中でシュプレヒコールを上げたり、信号で断ち切られて立ち止まることも多いので、かなりゆっくりした速度で進む。それでも仲間のグループからは次第に遅れ、他の団体からも追い抜かれ、警備の警官には「早く歩いてください!」とか言われ、そのたびに「心臓が悪いんだからしょうがないだろう!!」とか言い返しながら進み、デモの終点についたときは、仲間は総括を終え、すでにその姿はなく、こちらは脚はつりそうになり、疲れきり、散々だった。 もうこれでデモからは足を洗わざるを得ないと覚悟を決め、それ以降はデモには参加したことがない。 代々木公園といえば、2011年の東京電力福島第一原発事故発生に開かれた反原発集会が思い浮かぶ。原宿駅からは人波が公園まで続き、バスなども仕立て、地方からも多くの人たちが結集した。何人、何万人であったかは記憶していないが、膨大な人数が集まったのではないか。今回も恐らく同じだろうと、参加する前には予測していた。だからあまり混む前に現地に行っていようと、早めに出かけた。 原宿から代々木公園には健康な人なら10分ぐらいで着く。しかし自分の場合は早くは、というより普通の速度では歩けないし、途中で立ち止まることもある。したがってその倍はかかってしまう。 歩道がすいているのは早く来たせいだ、と思っていた。しかし、公園についても集会をやっている様子は全くない。数人が集まって縄跳びをしたりしているだけ。休日の極めて平穏な風情である。 もしかすると、得意の「日にち間違い」か! とも一瞬思い、呼びかけメールを確かめたが、間違ってはいないようだ。 それにしても、どうも様子が違う、といぶかりつつ、デモ出発点であるけやき並木園路に向かう。 何人かの人たちが何やら準備をしている様子がある。あっ、間違いではなかったんだ、と一安心。それにしても人数が少ない。のぼり旗を持っている人も何人かいるが、その周りにいる人たちも数人ずつ。全部でも50人程度か。 時間が早かったせいもあるのだろうが、どうしても反原発集会と比べてしまうので、寂しさは否めない。時間になれば人が集まってくるのだろうと、縁石に腰を下ろして待つことにする。 そのうちだんだん人が集まってきた。知り合いも何人か見つけ、こちらから声をかけた。旧知の人の消息なども聞く。 集会はデモ出発地点のケヤキ並木園路で行われた。ルポライターの鎌田慧さんや、チェルノブイリ子供基金の代表である向井雪子さんが登壇してお話をする。 11時にはデモの出発だ。 どうしようかと迷いつつも、もしダメだったら途中でデモの梯団から歩道に抜ければいいし、渋谷駅前あたりで「日和って」もいい。知り合いにもそう話して、デモに参加することにする。 始めは渋谷に向かって緩やかな下りなので、比較的楽だった。渋谷駅は名前の通り「谷底」だから、あとは少しずつ登りとなる。ここが思案のしどころだが、えい! ままよ、と歩き続ける。 結局デモの解散地点まで到達。解散地点での主催者からのアナウンスでは、500人とか800人とか言ってはいたが、どちらにしても少ないことは間違いない。 国内の原発の危機ではあれほどの人数が集まったのに、しょせんは外国のことと考えている人たちが多いのだろうか。原発が破壊され、放射能漏れが起きたら、国境など何の意味もなく汚染されるのだ。人々の想像力が足りないのだろうか。 この日、同じ渋谷区でウクライナへの支持を訴えるデモが行われ、3000人が参加したというテレビ報道があった。詳しいことはわからないのだが、もし報道の通りだとすると、それは少し違うのではないかという思いを禁じ得ない。 ウクライナは今ロシアから理不尽な攻撃を受けている被害国ではある。しかし、被害国であるからといって、無条件に支持していいものかどうか、ここは人によって判断が分かれるところである。 すくなとも私は、「ロシア=悪、ウクライナ=善」という立場はとならない。 ちなみに、今日参加した集会とデモの趣旨は以下のようなものだった。 1.ロシアのウクライナの軍事侵攻に反対し、市民の命を守ることを訴える。 2.チェルノブイリ原発の軍事占領に反対し、他の稼働中の原発・原子力施設への攻撃中止を訴える。 3.ロシアの核兵器の使用、威嚇を止めることを訴える。 私は、これには全面的に賛同できる。 また渋谷まで戻るのはしんどかったが、近くの小公園で一休み。パンをかじってから、渋谷に向かう。 (2022.3.5) |
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戦争反対!(2.27渋谷) 自治体議員と市民有志が呼びかけ人となって、渋谷ハチ公前でロシアの軍事侵攻に反対する集会が開かれた。 もともとはロシア大使館前で抗議行動をする予定だったらしいが、警官の規制が厳しく(不当な規制だが)、抗議のために集まる人たちが(他の団体・個人も含めて)多かったため、こちらでの集会になったらしい。 それでも、組織されない人々が400名以上も集まった。 ウクライナでロシア軍によって引き起こされた戦争に、いてもたってもいられず、声を上げなければならないと、自主的に集まった人々。 大阪から来た人もいた。東京の檜原村からやってきた人もいた。中学生もいた。もちろんウクライナ人も、ロシア人だっていた。みんな戦争はダメだという思いでここに来た、それをひしひしと感じることができた。 市民有志ばかりでなく、地方自治体の議員もが中心となってが呼び掛けたというのもいい。地方自治体こそ、市民の声が最も届きやすく、身近な存在だ。国会議員などよりは、自治体議員の方が市民のことをよくわかっているはずだ。 久々に集会に参加して、熱をもらった。 日ごろの運動不足と、体調の悪化のせいで、1時間近く経ち続けるのは本当にしんどかったが、来たかいがあった。そして、この集会を呼びかけてくれた人たち、またこの集会の参加者たちに感謝したい。 これは戦争反対の始まりに過ぎない。地元に戻ってその熱を伝え、地に足を付けた活動につなげなければならない。 (2022.2.27) |
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ピースウォーク(武蔵野市) 11月24日は武蔵野市平和の日、ということは最近知った。他市の人間であるのだから当たり前だが、まったく関連が無いわけではない。 敗戦前、東大和市には日立飛行機株式会社(その前身は東京瓦斯電気工業株式会社)立川工場という軍需工場があった。その工場は、太平洋戦争末期の1945年に数度の空襲で破壊されたが、工場の変電所だけは激しい傷跡を残しながらも奇跡的に倒壊を免れた。東大和市ではこの変電所を市の史跡として定め、保存を図っている。 同じく武蔵野市には戦前・戦中から中島飛行機武蔵製作所という広大な軍需工場があり、これまた太平洋戦争末期米軍による激しい空爆を受けている。その最初の空爆があったのが1944年11月24日。武蔵野市は「犠牲になられた多くの方に哀悼の意を表すとともに、戦争の記憶を風化させることなく、平和の大切さを伝えていくために」(武蔵野市HPより)この日を「武蔵野市平和の日」と定めた(しかし武蔵野市の場合は残存していた「変電室」は2014年に解体されてしまった)。 今年の平和の日には、武蔵野市の事業として記念講演会(「戦後75年・戦争体験をどう継承するか」 講師:吉川裕氏)があり、これと並んで、「2020年 平和月刊実行委員会」という市民団体がさまざまなイベントを計画している。そのひとつとして、11月23日にピースウォークという行事があるということを知り参加することにした。 東大和市でも平和事業として市が独自に戦争にまつわる品々やパネル展示を行い、平和文集の作成などを発行している。また毎年8月には、東大和市主催の「市民平和のつどい」を戦災変電所前で実施している(今年はコロナ禍で中止)。しかし残念ながら、これらの行事に市民や市民団体の係わりはみられない。あくまでも市単独の事業(それはそれとして評価できるのではあるが、)として行っているばかりである。 そんな現状に問題意識を持つ自分としては、他市の(今回はたまたま新聞で見かけた武蔵野市の)事例が気になるところ。ピースウォークが午前中、講演会が午後というタイミングもあって参加することにした。ただ、ピースウォークという名前からして長距離を歩くことは避けられない。心不全で、ちょっと歩くと息が切れるという状態の自分としては、そのことに少し不安を感じつつの参加だった。 「武蔵野中央公園旧変電所跡集合」とあったが、武蔵野中央公園は広い。事前にネットで変電所跡を調べてみたが判然としない。現地に行ってから公園管理事務所で訊いてみた。どうも管理事務所からは一番離れたところのようだ。時間はかなり余裕をもって出てきたので、ゆっくりゆっくりと、自分を試すように歩く。 それらしき所についたが、まだ人影は少ない。まだ集合時間には30分近くある。のぼり旗を組み立てている方がいたので声をかけると、前日に電話でお話ししたT氏であった。東大和市の平和事業の資料などお渡しした。 変電所跡地の周りには当時の工場の写真(主に米軍の移した航空写真。軍事機密のかたまりだった工場の風景写真はほとんど撮られてないらしい。)と説明が書かれた立て板状のプレートが設置されている。 そのうち人が集まり始めた。もと武蔵野市長や現市議会議員もいて、少しお話をする。なんと、別の会でお世話になっている方が、パートナーとご一緒に参加されていた。毎年来ているとのこと。確かのこの地が地元だということは知っていたが、まさかの出会いに驚いた。 今日のコースは、中央線武蔵境駅から中島飛行機までのびていた引き込み線跡(現在はグリーンパーク遊歩道となっている)をたどり、戦争にまつわる事物に触れるという趣向だ。 引込線跡に入る前、公園内にある長崎から譲り受けたという被曝クスノキ2世を訪れる。武蔵野市平和の日を記念してここに植樹したものらしい。東大和市にも広島から贈られた被曝のアオギリの木が戦災変電所そばに植えられていることを同道していた方にお伝えした。 引き込み線に入ってすぐ、左手にオリーブの木が植えられていた。手前には案内板があるが風化していて全く読み取れない。案内してくれた方のお話だと、以前ここで、パレスチナとイスラエルの方が平和を祈念してこの木を植えたのだとか。せめて案内板ぐらいは整備しておいてほしかったと、残念に思った。 行く手右側には、引き込み線を説明する案内板も設置されている。こちらは何とか判読可能だが、手入れがされていないことはひとめでわかり、これまた残念。 五日市街道と井の頭通りの中間あたりが関前というところで、戦時中は行く手右側に高射砲陣地があった。今はその面影すらも見られないが、案内板のみが立ってその様子を伝えている(写真C)。4月12日の爆撃で落とされた1トン爆弾で、周辺の住宅も被害を受け、多くの住民が犠牲になったとのこと。兵器や軍事基地があるところは恰好の攻撃目標になる事例と言えよう。 井の頭通りを渡り、しばらく行くと下を玉川上水が流れている。遊歩道が玉川上水を渡るところに橋が架かっている。これがぎんなん橋。ぎんなん橋が設置される前は引込線の橋が架かっていたそうで、橋のたもとには当時の橋台まだ残っており、引込線の唯一の戦争遺跡となっている。 ぎんなん橋には、当時をしのばせるためか、鉄道のレールを模したものが渡されている。 ぎんなん橋を渡ったあたり(本村公園のあるあたり)が、境浄水所と工場への引込線が分岐していたところでだ。このあたりには旧国鉄の境界線を示す石柱が見られる。「工」の字は国鉄工事区のことか? 戦後は三鷹駅から東京スタジアムグリーンパーク野球場(現在はすでに取り壊されており、その姿はない)までの鉄道(武蔵野競技場線)が延びており、このあたりからは軍需工場への引込線跡を利用したらしい。 少し行けばもう中央線の高架となり、右手に行けばすぐ武蔵境駅に着く。高架近くに集まり、本日のピースウォークは終了となった。 武蔵野市では、市民による平和活動が活発に行われており、市独自の事業といいマッチングができていると感じた。東大和市の平和事業と比べると、いろいろなことが参考になった。 たかだか3qほどの歩行だったが、日ごろ歩きなれてないぼくの脚は今にもつりそうになっていた。何とか最後まで歩きとおせたことは良かったが、それ以上の苦しさを味わったことも事実だった。 この後、武蔵野市主催の講演会に参加したが、そのことは機会があればまた触れよう。 (2020.11.24) |
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「失われた春」上映会 今年の3月中頃、立川でドキュメンタリー「失われた春」の自主上映会があった。福島第一原発により放射能汚染被害に遭った、阿武隈地方のシイタケづくりの復旧の闘いを記録した映画である。時期としては、新形コロナ感染の拡大が顕著になってきた頃であった。 新聞で上映会のことを知り、ぼくはその上映会に出向いた。2時間という長い記録映画だが、画像も美しく、見る人を引き付ける内容だった。ぜひ東大和市でも自主上映を行いたいと思い、その場にいらした田嶋監督に申し出、快諾を得た。 この映画は集会所や視聴覚室のような、こじんまりとした所で見るべき映画ではなく、大きな画面で、ゆったりとした環境で鑑賞することで、この映画のよさが一層際立って伝えられると考えた。ぼくの頭の中には東大和市の市民会館(ハミングホール)の小ホール以上の場所というイメージがあった。 しかしながら、4月に入って新型コロナ感染の拡大に伴い、緊急事態宣言の発出があり、公共施設が軒並み閉鎖となり、使える施設がなくなった。学校なども一斉休校となった。一般の映画館も上映を自粛するところが相次ぎ、人が集まることもはばかられる事態となった。マスク着用は「常識」のようになり、各種催し物も中止や延期、飲食店も営業時間を短縮、または閉店するところも増えた。 実はこの間、4月29日に市の公民館の視聴覚室で上映会を計画していたのだが、施設閉鎖のため実質的に実施不能となった。 5月末の緊急事態宣言の解除までこのような状態が続いた。日本は、いや世界中が新型コロナウイルスに振り回されていた。緊急事態宣言解除後、学校も変則的ながら授業を再開し、公共施設も部分的開放を始めた。いっぽう7月に入って東京の感染者数は200人を超え、催し物や飲食店の自粛要請がされ、夜の街から灯りが消えた。 このような環境下で映画会を計画したとしても観客は来ないだろうと判断したが、それでも監督との約束をなかなか実行に移せず、焦りのようなものも感じていた。自分の住むマンションの集会室などで、小規模ながら上映会を行う案や、公民館の視聴覚室を使って小人数での上映会を数回開くなどの案も浮上したのだか、実施には至らなかった。 8月中旬になって感染の拡大に落ち着きが見えたころ、市民会館の小ホールの予約サイトを覗いていたら、土曜日が1日中空いていることを発見した。その日は11月7日だった。 小ホールであれば当初の理想に近い条件で皆さんに見ていただける。11月7日を押さえておきたいが、もし開催しても来客があるかどうか確定的なことは何もわからない。それに今後の感染状況の推移によっては一気に激減ということだってあり得る。迷いに迷って、その日は予約を入れるのをとどまった。 1週間ぐらいしてから、再び予約サイトを開いてみた。まだ11月7日は空いている。これを逃せばもう今年中は無理だろう。それどころか、インフルエンザ流行が治まる春先までは、むしろ状況は厳しくなるばかりかもしれない。 それに映画たって「旬」というものがあろう。完成から1年以上待たせるのは何としても避けたかった。お客が来なければそれも良し、ままよと心を決め予約のためのボタンを押した。 それでもホールへの代金の支払いまではまだ迷っていた。これを払い込んでしまえばもう後戻りはできない、そう思うと決断も鈍った。なんと優柔不断なことかと自分で自分を呪いたくなった。しかし、払い込んでからはさすがに覚悟が決まった。 小ホールでやると決めてからは、10月4日に試写会を設定し、上映会協力者を募った。上映会には直接関わりがないのだが、日頃付き合いのある「サンホセの会」のメンバーにも声をかけ、協力してもらった。 宣伝チラシも作り、できる限りの場所、機会をとらえ配布した。新聞誌・ミニコミ・タウン誌・情報誌・情報サイトにも掲載を依頼した。立川で自主上映を主宰された方が「『失われた春 シイタケの教え』自主上映を応援する会」というサイトを立ち上げていて、その方とも連絡を取った。監督とも連絡を取り合い、当日配布する資料も作った。できるだけの準備はしたつもりだ。 ところが、スタッフとして参加を予定されていた方のうち半数近くの人が、たまたま都合が悪くなり、上映会当日来られないことになった。これにはさすがに慌てた。 この上開会では、コロナ対策で事前に連絡先を確認するという決まりになっていたため、予約の受付がほとんどで、入場料は当日払い。チケットの前売りはあったが、ほんのわずか。当日は予約受付での時間が大幅に割かれる可能性が強い。そのうえ2時間という長い上映時間の映画を午前・午後の2回に分けて行う。午前の受付が滞れば、そのしわ寄せが午後にも及び、スタッフへの負担は大きなものになる。さらに上映終了後の館内の消毒作業もある。昼食もゆっくり食べている暇もないだろうと思われた。 これでは、一大決断しなければならないかもしれない。スタッフの人数によっては受付は全て自己申告制にして、観客が自分でチェック、代金も回収箱に自己判断で入れてもらう。おつりが必要な方は自分で計算して持って行ってもらうようにする。こうすれば大幅にスタッフの人数が削減できる。それにこの取り組みは、新たな人間関係へのチャレンジにすらなると自分に言い訳し、いちどは現実的な選択肢として浮上した。 しかし、結果的にはこのチャレンジは行わずに済んだ。というのはその後、個別に頼み込んで依頼に応じてくださった方がいたこと、そして何より観客として参加予定だった方が、数人スタッフとして加わってくれたことが大きい。「窮すれば通ず」とはこのことだろう。 上映会当日にはもうひとつ難問が待ち構えていた。上映会当日の朝、参加される高齢者の方から、体温測定はどうしているのかという問い合わせがあった。アルコールでの手指の消毒、館内の消毒、連絡先の確認等の感染症対策はしたが、体温計を使った当日の体温測定までは想定していなかったし、会館側らもそこまでは要請されていなかった。そのような事実をお伝えし、今からでは間に合いそうもないので、受付で体調確認するくらいしか方策がうてないと答えた。 たしかに現下の状況では、体温計による体温測定は一般化しているし、あったほうが観客も安心して参加できる。ただ、感染予防に対する感覚と対応は人により、状況によりまちまちだ。体温測定をしていないからといって不参加にする方もいるかもしれないが、それは仕方のないこととして受け入れるしかないと心を決めた。 それでも念のためと思いホール側に問い合わせたところ、非接触型の体温計が1台だけあり、貸し出し可能だということ。それをお借りすることで、とりあえずはこの難問もなんとかクリアできた。 開けてみれば、観客は混雑するほど多くはなく(かといってきつい赤字になることもなく)、受付でも混乱なく入場いただけた。スタッフにも、当初想定していたような過重な負担はなく、2回の上映も無事済んだ。午後の回が終わり、会場のあと片付けもすんなりと終えた。終了予定時間より早めに解散できたくらいだ。 もちろん観客の数がそれほど多くはかなったということがいちばん大きな理由だろう。そのため、気づいた限りでは順調な流れになったと自負している。それでもコロナ禍での催し物としては少なくない来場者を得ることができた。もちろん今後に向けて与えられた課題もたくさんあった。 この映画会が無事に終了したことはもちろんだが、田嶋監督をはじめとする多くの方との新たな出会いがあったことも、自分にとっては喜ばしいことだった。終わってみればいつもそうだが、やってよかったという実感がある。また、コロナ禍での上映会にもかかわらず、市内・市外からご参加いただいた皆さんにお礼を申し上げたいし、併せて感染対策に充分な対応をなしえなかったことをお詫びしなければならない。そして何よりも、この映画会を共に作り上げてくれた仲間に感謝したい。彼らひとりひとりのがいなければ、とても実現し得ない映画会だったからだ。今回ほど仲間のありがたさを感じたことはない。 (2020.11.10) |
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伊藤忠アビエーション本社抗議行動 3月9日、伊藤忠アビエーション本社前で開かれた、「憲法違反の長距離巡航ミサイルJSMの輸入をやめろ!」抗議行動(呼びかけ:不戦へのネットワーク)に参加した。伊藤忠アビエーション本社は、首相官邸のちょうど裏側にあたる溜池山王にある。この日は、同社名古屋支社前でも同時に抗議行動が取り組まれていた。 新型コロナウイルス対策を名目に、(日本に限らないが)異常ともいえる対応が続いている。小・中・高の学校は休みになってしまうし、公共施設も閉鎖状態のところが多い。小学生をかかえた親御さんは、子どもへの対応でてんやわんや。仕事には行けないし、そのうえ給料も出ないとあっては生活にも差し障る始末。学校を休みにして学童保育やっていれば世話はないが、こんな中、障害を持つ子供たちへの対応がどうなっているか気になるところ。 イベントやスポーツ大会も軒並み中止。中小事業の者は保険の対象にもならず右往左往している。人が動かないから、当然のことながら経済も渋るいっぽう。こんな時こそ、5兆円を超える軍事費を削って社会保障に回すべきだろうと思うが、野党を含め誰もそんなことは言い出さない。あろうことか、基本的な人権を侵しかねない新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正案が、野党の(抵抗?)空しく国会を通過しようとしている。 地元ではこの間、ごみ処理施設建て替えに対する声議行動や、それに関連する廃プラ施設への対応、「子ども子育て憲章」反対の陳情行動、(詳しく説明しないと分かりにくいと思うが、)平和友好都市協定をめざす活動の一環としてコスタリカ大使館訪問・お花見準備、マンション関連の連絡会の計画(実施の直前まで進んでいたが、公共施設の閉鎖によって中止に追い込まれた)等々あったが、それら全ての報告をホームページにアップする間もなかった。 それでも都心には出ていた。南西諸島への自衛隊配備反対の院内集会に参加したり、イラク派兵反対の集会に行ったり(デモは体力的に困難で参加せず)、天皇奉迎に子供達を参加させなかった報告集会(これは八王子)に出かけたりなどしていた。それらの集会や運動に自分としても関心があったからだが、その内のいくつかは、3月1日に都内で開く予定になっていた「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議発足集会」のチラシを撒くという二次的な目的もあった。この他にも安全保障技術研究推進制度(防衛整備庁)に係わる審議委員に対しての働きかけなどもあった。 上記市民集会自体は無事に開催されたのだが、自分自身は参加しなかった。当初は参加するつもりだったのだが、(コロナでなくとも)通常のインフルエンザにかかっただけで、場合によっては命とりという体調のためだ。中心メンバーとなっている知人に連絡し、やむなく参加は見送ったのだ。 とはいえ、今回は屋外での抗議行動。マスク着用で駆けつけた。こんな時にうちでじっとしていることへの後ろめたさもあった。小さいが自作のプラカードを持参した。 伊藤忠アビエーションは地下鉄溜池山王駅を出てすぐの所にあり、歩くのが苦手な自分にはとても楽だった。それでも2時間近く街頭で立ち尽くして、横断幕やプラカードを掲げたり、チラシを道行く人に配ったりするのはけっこうつらい。運動できない体になってから、脚の筋肉もかなり落ちているのだ。 この日の行動には約10数人の参加者があった。出入りがあったので延べ20人弱の人が来ていたようだ。労働組合などの動員はない。呼びかけ団体も市民団体で、参加者も各地から(遠くは札幌からの人もいた)来ていたようだ。それぞれ地元で何らかの活動をしている人たちだろう。自分もそのひとりだったわけだが……。 ある意味自立した市民は強い。組織のしがらみも無ければ、後ろ盾もない。それはそれでよいが、党派や団体の動きがまったく見られないのもどうなのだろう。 多数の力に抗するためには、一人ひとりの力だけでは弱い。その場では連帯できても、地元に帰ってしまえば(地元地域のつながりはあるが)運動の組織的・継続的なつながりは保ちにくい。その時その場だけでは、やはり大きな力とはなりにくいのではないか。そんな不安も感じながら立ち続けていた。 (2020.3.11) |
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これ以前のデータは「街をわたる風・三の蔵」に保存してあります。 |